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洋館付き住宅について > 昭和の生活用具 |
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■昭和の生活用具 |
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昭和の暮らしのなかで活躍した生活用具のご紹介です。記憶のなかの懐かしいものたちを思い出してください。 |
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■湯たんぽ
冬の夜、冷えた寝具をぬくもらせ、眠りを誘うのが湯たんぽの役目。
素材は小判型のブリキ製の物が多く、蓋はねじ込み式になっていた。他に陶器製の物もあり、蓋は木の栓を差し込んで使っていた。陶器製のほうが柔らかな暖かさがあったが割れやすく、扱いに注意が要った。
使い方は漏斗を使って熱湯を注ぎ入れ、栓をする。それを刺し子の袋に入れ、口をきゅっと結び、布団の中に入れておく。ぬくもりが広がった頃を見計らって布団に潜り込む。冷たい足先が和らぐ。時には袋の口が緩み、火傷をすることもあった。
湯たんぽが必要なのは寝入りばな。寝相の悪い子は、熟睡してしまうと、そっと湯たんぽを外された。汗をかいて布団から飛び出してしまい、風邪を引いてしまうから。
北国の室内はストーブで暖かいとはいえ、寝るときには暖房は落とす。明け方自分の呼吸で布団の襟はうっすらと凍る寒さ。
朝、湯たんぽのお湯はぬるみ、洗面器に空けて洗顔に使った。
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(島田眞弓) |
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■木のたらいとその仲間たち
[たらい:盥 @手洗いの略 A湯水を入れて、手や顔を洗う平たい容器。B湯水を入れて、物を洗う平たい容器。…主に、湯水を入れて何かを洗う、すすぐ等作業用のための容器。昔から、水に強い桧、さわら、槙の木製で弧状に削った小割板を突き付けのみで縦に円形状に並べ、底板を付け、竹や金属性の「たが」を嵌めて造る。]
専門の桶屋、職人が木製風呂桶、各種桶、大小「たらい」を店先の作業場で作っていた。
夏の風情に、日本髪の女性が手ぬぐいを使う、夕方の行水の様子を浮世絵の題材にしているように、庭先の日向に大きな「たらい」を出して水を張り、夕方近く温まったぬるま湯で昼の汗を流す。行水は庭先で行い、ささやかなリフレッシュがイキで、省エネでもある。夏の子供の水遊びにも、現在のビニールプールのように「たらい」を使った。
昭和30年代くらい迄、まだ自宅出産が多く、赤ん坊の産湯に、肌にもやさしく、厚手の板でつくられて、保温性のある「木のたらい」が必需品だった。又、木製たらいは、その保温性で大きい氷や井戸水を入れ、ラムネ、ビール、瓜やスイカを冷やすのにも重宝した。新潟佐渡では明治初め考案された「たらい船」が今でも漁や観光用に使われている。
据え置き小判型の木製家庭風呂桶(桶内に鋳物や銅製の煙突付の釜を取付け、焚口から燃料を入れて燃やす)の下部が腐り、傷み始めると、その風呂桶のまだ傷んでいない底板や側板をリサイクルして、「たらい」に作り直すのを風呂桶屋さんに頼んでいた。
戦後、残った航空機用のアルミ、鉄材を鍋、釜、「たらい」の材料に転用し、軽くて、丈夫な大きい「かなだらい」が増える。現在では殆どプラスチックになり、一層軽くなる。
類似の物として「桶」がある。[桶:木製の円形容器覧物を入れて、運ぶ、移すための盥より深くバケツ状の容器。手桶(取っ手や持ち手の付いた桶、洗面器程度の大きさの盥、)すし桶、水桶、馬草桶、肥え桶、たがが緩む等々。]桶にまつわる事柄は多い。さてそのうちの一つ、「風が吹くと、桶屋が儲かる」とはどのようなことなのか、文が長くなるので、自分で調べてみましょう。
江戸時代、桶職人にはよく船大工出身者もなっていたと聞く。板材を使い、水を漏らさない容器を作る技が似ているためか、盥とか桶や台所流しが船とも呼ばれた所以か。桶と同じ用途にバケツがあるが、明治末頃からブリキ製バケツが出回る。小ぶりで多少深めの木桶はバーや飲み屋で、大きな氷塊から水割り、オンザロック用の「ロック」をつくる際、アイスピックを使っても容器に穴があかないので、業務用製氷機が出回るまでよく使われた、又家庭で氷枕、氷のう用の氷つくりにも活躍した。
さらに桶に似たものに「樽」がある、[樽:主に流動物の貯蔵用に使い、ふたがつく。]日本酒、味噌、醤油、漬物造りに巨大な樽も使用していた。現在は保健所の指導でステンレス製容器に替えられている。一方、米国の高層ビルの高架水槽は現在でも、水質保持のため木製の丸型水槽を使用していて、多くの樽職人が大活躍している。MM21ランドマークタワーでも桧製樽の水槽(最大80トン)が地下と高架に置かれ、給湯用水に使われている。日本の樽は下すぼまり型が多く、外国の樽は中央部が膨らみ上下すぼまり型が多く、転がして移動するに便利。明治時代、油類、セメント、洋釘は木製樽に入れられ、輸入されていた。
今年の夏は「たらい」で行水をしてみよう…。さて、どこで…?
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[写真]戦前製のさわら材のたらい(直径57cm高さ25cm) |
(越智英夫) |
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■茶だんす
かつて家族が集うお茶の間に必ず見られた「茶だんす」。
西日本では水屋とも呼ばれるこの家具が活躍し始めたのは、明治時代に入ってからである。
もともと茶箪笥とは、野外でお茶をたてるときなどに使われた携帯用の茶の湯の道具入れのことを言い、水屋もまた、茶室に付属した茶の湯の準備をする部屋のことであるが、これらと、豊かな商人達などの間で盛んに使われるようになっていた座敷での飾り棚とが一緒になり、江戸の後期頃に庶民的な「茶だんす」の原型ができたようである。
明治に入り、都市で生活する人々が増え始め、茶の間が食事や団欒の場として家の中心的な部屋になってくると、茶だんすは、お茶道具や菓子、財布や印鑑まで生活のこまごまとした道具をしまう場所として大変重宝されるようになった。大正から昭和にかけては、引き出し付きのものや網代やガラス戸をいれたものなど様々なデザインのものが作られ、長い間、庶民の暮らしの中で親しまれる家具となったのである。
その後生活様式が変わって、食事をする場もちゃぶ台からダイニングテーブルへと変化していくにつれて、近頃ではあまり姿を見なくなった茶だんすだが、「お茶の間」世代でなくとも何故か懐かしさを感じる家具である。
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(小林佳子) |
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■照明(前篇−用具の時代) |
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大正期頃の石油吊りランプ

昭和初期頃の電気スタンド
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照明は昔、総称して「灯具」といい、古代期より江戸末期まで長い間、植物性搾り油の灯油(菜種、胡麻、樹木の実-椿、イヌガヤ、ハシバミ、くるみ、桐)を灯火器(灯火皿、ヒョウソク、たんころ)に入れて、灯芯(山吹、い草、ニワトコの芯)に点火し、灯具(行灯、提灯、瓦灯(かとう))内に入れたり、灯火器の裸火で使用した。地域により、灯油として魚油(鰯)、湧出臭水(くそうず、未精製石油)も使用。地場産の灯油、芯、灯火器、灯火用具等、工芸品級から駄雑器まで知恵、工夫を凝らした、様々な形態、方法で夜陰を照らした。和蝋燭(木蝋-漆、ハゼの実の樹脂)は原料の採取、製作工程共手間多く、高価で社寺、豪商、高位武士等の富裕階層のもの。
ちなみに「油を売る」とはこの灯油を売り歩いて、買い手の油徳利に入れるのに、粘度が高く時間が掛かることから生まれた言葉。菜種灯油の値段は米の3倍だったとか、和蝋燭は更に高価だった。また、ペリー来航、通商交渉は灯油用に鯨油のみを採るため(本体はその場で廃棄-勿体無い)、捕鯨船用の必要物資を補給するのが初期目的だった。その後テキサス州で油田開発され、捕鯨は無くなる。
明治に入り安価な西洋蝋燭(パラフィンワックス)が輸入、国内量産化。同時に石油と石油ランプが輸入、直ぐに国産化し、安価な多種多様な形で明治の代表的照明として大々的に普及。植物性灯油より明るく、照度調整容易、取り扱いやすく、街灯や産業用、家庭用に照明の主流になるも、高揮発性、硝子製の火屋(ほや)や壷が割れやすく、失火、大火(明治44年吉原大火)の火災多発の元凶として大きな社会問題になる。この石油ランプ用に、以前より灯火用に臭水が産出利用されていた新潟、長野等の石油井戸が稼動企業化され精製生産された。
石油ランプと並行して、カーバイトアセチレンガス灯が強刺激臭のため屋外用で使用された。
(越智英夫) |
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■照明(後篇−設備の時代)
明治5年横浜にガス灯設置。明治16年電灯会社(現東京電力)発足、明治20年発電(エジソン式蒸気機関直流、茅場町付近)開始配電、アーク灯街灯に供給。都市部では治安維持、近代化、商業活性化に伴い、街灯にはガス灯、石油ランプ灯、アーク灯と3種の光源が混在し、大正期迄競合。日清戦争後の好景気、ガス料金値下げで家庭でもガス灯(白熱マントル付)が一時期普及。明治20年一般家庭にも配電開始され、明治23年カーボン電球が国産化、当初低照度なるも、その輝きと安定した明るさ、手軽な操作は世を一変。石油ランプに引きつづき乳白、着色硝子等の笠使用、小規模発電所も増設、更に明治25年水力発電(箱根湯元、塔ノ沢)開始で広域配電化、低料金化し、電球も低価格化、東京では大正半ばには90%近く電灯に切り替わりました。明治42年タングステン電球を生産、高照度化、防高輝度ため球形硝子グローブも使用。低容量配電、工費の関係上各室天井中央吊下げ式単灯で普及しました。
21世紀の今でも、当時と同じ器具配置が多いのが不思議です。
明治になり、照明の「用具」が「設備」に変化、照明設備となり、不活性ガス入り電球、2重コイル電球、低輝度内面艶消し電球と長寿命化、高照度と進化し、電灯万能の時代になります。明治末〜昭和半ば過ぎ迄白熱電灯の全盛。2次大戦中灯火管制用に下面のみ照らす笠、笠覆い、防漏光電球が使用され、戦後の電力不足の一時期、都市ガス用マントル式ガスランプが復活。昭和40年代より蛍光灯が爆発的に普及します(家庭用の普及は世界的に珍しい)。
現在では、十分過ぎる明るさになり(エレキの平賀源内もビックリ)、迷うほどの、各種機能、多用途、省エネの電球、照明器具類が選択可能になりました。 |
(越智英夫) |
■お薦め「あかり−灯具」の収集館 |
あかりの資料館 群馬県高崎市
T0273-23-3300 (山口工業内)
日本のあかり博物館 長野県小布施町
T026-247-5669
江戸民具街道 神奈川県中井町 T04565-81-5339
武石村ともしび博物館 長野県武石村
T0268-85-2474 |
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■火鉢 |
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火鉢の歴史は意外に新しい。もともと奈良時代より火桶はあったが
陶製の火鉢は明治以降という。全盛期は昭和20年代で、40年代に入ると石油に押されてぐんと廃れてしまう。冬の暖房器具としてだけでなく、湯を沸かしたりまた、顔を照らし出す光源としての役割もあった。
最近では炭の脱臭効果なども騒がれているし、これひとつで色々な良いことがあった訳である。
大きさも手あぶりと言われる小さな物から、店先に置いて使用したという縦長な物まで色々と。デザインも様々に趣向を凝らして作られていた。
今やガーデニングの鉢として役割は変わってしまった様だが…。
今年の冬、火鉢の炭入れにトライしてみてはいかがだろうか。
(大西宏美) |
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■時計 |
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時計は小型化、精密化を目指して、発展されました。日本は明治時代から、外国の高精度で低価格な機械式時計が輸入され、時法も、時計も一変されました。今は発展して便利になったとはいえ、人の暮らしの中ではゼンマイ式の時計も砂時計なども普及しています。
大昔、砂時計は調達コストが安く、そこそこの精度がえられ、使用する際の手間が簡便、静かで温度や揺れなどの変化に強い事から、寒い北の国のヨーロッパで重宝されたり、書斎や教会の説教檀、航海用として普及されました。それに比べ、当時の機械式時計は音が大きいので、教会では使用されませんでした。現代に比べて、時計の普及の仕方が時々によって違う装いを著していました。
今からちょっと昔に、家庭にあらわれた、木製のゼンマイ式時計の大きな振り子は、安定した精度が得られる為のものだったようですが、今となっては砂時計と同じく、便利さ以外にも、暮らしの中では色んな時計のかたちがあっていいのだな、と思わせてくれるそんな一つです。
(石井文乃) |
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■卓袱台(ちゃぶだい)
卓袱台というと思い浮かぶのは、サザエさん一家の茶の間の丸いテーブルである。
「一つ食卓をみんなで囲む」ということが江戸時代までの日本ではできなくて、一人一人の銘々膳で食事をしていた。それが、明治になって四民平等になりやっと一つテーブルを囲むことができるようになった。
その卓袱台も昭和50年代に入るとダイニングテーブルに変わりはじめ、いまや日本の家庭はほとんどがダイニングテーブルになっている。しかし、最近又卓袱台が人気のようだ。折り畳める機能性と座って食べるくつろぎが日本人の生活に合っているのかもしれない。
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(藤田靖子) |
※参考文献:小泉和子著『昭和のくらし博物館』(河出書房新社) |
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■足踏み式シンガーミシン
横浜・磯子区K邸改築時、廃棄されるところを会のコレクションとして入手。
黒地に金のスフィンクス像の入ったボディ、側面のレリーフ、SINGERのロゴと有機的デザインを組み合わせた脚部。以後のミシンの原型となったアメリカ・シンガー社の代表的スタイル。
大正から昭和初期、洋装化に伴い、「そういんぐましね」(ミシン)も一般 家庭に普及していった。戦後の衣料不足から、ミシンは戦争未亡人・主婦らに爆発的に普及、経済的自立を支えた。
家計を生み出す家財道具「ミシン」は、女性たちを明日へ運ぶ夢の車だったに違いない。
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(伊東純子) |
※参考文献:「洋裁の時代」(昭和のくらし博物館) |
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■蓄音機
レコードを再生する機械。大正から昭和にかけて作られたが、贅沢品(ぜいたくひん)だった。
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■ネコアンカ
こたつの中に炭火を入れて暖をとっていた。電気コタツが普及すると、蚊取り線香をおいたりしていた。 |
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■はかり
おさらに物をおき、分銅を動かして目方をはかる。 |
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■ラジオ
1925(大正14)年からラジオ放送が始まる。昭和初期から急速に拡がり、庶民の娯楽の主役となる。
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■冷蔵庫
電気冷蔵庫が普及するまでは、氷冷蔵庫が使われていた。上の段に氷をおいて、下の段の食物を冷やしていた。これは、営業用で大型である。 |
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■洗面台
昭和初期のもの。「東洋とうき」と書いてある。現在では「TOTO」という会社になっている。
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■幻灯(スライド機)
ひとつひとつにスライドをいれて映し出す世界は、テレビやビデオの無い戦前では貴重品であった。大人の娯楽にも使われていた。
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